平安時代の葬儀

紫式部の『源氏物語」にはお葬式の場面が多い。

おおげさな表現をすると、
次々と登場人物が死に、
火葬場の煙と消えるのである。

まさに「無常」の文学である。

『万葉集」では火葬の煙や雲を故人を偲ぶよすがとしていたが、
『源氏物語』においても、
このレトリックは継承されている。

加えて想像以上に際は生前相談を、していた葬儀社に葬式を要請することが叶うから、現実にといった時にもじわじわと策を打つことが可能です。
先祖代々に関してのお参りですので家族でやる方が、良いに決まってますが、各々の事情で、実施できないケースには、お寺に電話をかけ、卒塔婆を立てるお参りだけを、要請する事もあります。
死亡者の一室の始末浄化、不要物の掃滅といった遺品生理は、現在に至るまで家人の遣り抜くことがノーマルでした。
ここ数年墓石の製造工程のものすごい向上によりフォルムの自由度が、めちゃくちゃ躍進し、自らのお墓を、個人でデザインする事が、出来ると言うことになったわけなのです。
家族葬勉強会や終活セミナーや葬儀式場見学会などを行っているはずですから、とりわけそれらに顔を出すことを訴えかけています

 

たとえば、

 

見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつましきかな(夕顔)

のぼりぬる煙はそれと分かれどもなくて雲居のあはれなるかな(葵)

といった具合で、
拾い出していくとそれだけでかなりのページ数が必要になる。

こうした描写は形式的な表現に陥っている面もあり、
死=火葬=煙(雲)という図式が、
平安貴族の念頭にはあったことがわかる。

火葬が腕曲に「例の作法」と呼ばれたことからも、
火葬がごく一般の葬法になっていたことが知られる。

小さくひっそりとした葬儀を検討しているのに高価で派手な祭壇や飾りを推奨される場合は、葬儀社の適合性が、あっていないということです。
肉親に家産があり得ないから単独相続は関係ない、わたくしは何も引き継ぐ所存はあり得ないので相続は関係ない、と錯覚をする者が大方いるそうです。
哀悼コーナーにお邪魔した参加者の方たちがお酒好きなご主人はたらふくご馳走になりました、と言われるのを聞いて、ご家族は驚きました。

 

「葵」の一場面を引いてみよう。

夕べの「この上はどうにもいたしかたないと、
烏辺野へお連れ申しあげるが、
その前後には悲嘆にみちたさまざまのことが尽きない。

あちらこちらからのご葬送の人々、
寺々の念仏僧たちが、
広い野原を埋めつくしている。

院はいまさら申すまでもなく、
后の宮、
東宮などのお使者やそのほかの方々も入れ替り立ち替り参上して、
尽すべくもない哀悼の言葉を申し述べられる。

(略)夜通し騒ぎたつ盛大な儀式ではあるけれども、
まことにはかない御遺骨のほかには何も残らず、
夜明けにはまだ早い時分にお帰りになる」(阿部秋生・秋山虚・今井源衛・鈴木日出男校注・訳)葬りの場面が多いということでは、
『栄花物語』(作者不詳)も同様である。

栄華を語る物語でありながらお葬式を語るところに、
平安時代のリアリズムがあったのだろう。

喪家の代表は葬儀告別式の実務的なところでの窓口となり大きな役割分担は列席者へのおもてなし、などがございます。
忘れられない人間が死んだ現実を認めた上で亡くなった人の霊を弔い参加した親族友人と、その悲しみの共感する事で、やがて深い悲しみの心がケアされていきます。
祭事を順調に行うためにはお客様と葬儀社とのコミュニケーションもコミュニケーションも大切になりますので、些細と思われることでも、お問い合わせください。
「葬儀僧侶」と言う呼び方も「葬儀・法事にしか携わらない僧侶」を嘲笑った言い方だけでなく「葬儀に関係するから穢れている」という訳合をもつこともある。

さて、
こうした平安文学の葬送の場面を読んでいると、
火葬の場面でクライマックスを迎え、
その後急速に会葬者(あるいは物語作者)の興味が薄れていくのを感じる。

白昼に火葬が行なわれた奈良時代とは違い、
平安時代は宵から夜中にかけて行なわれたので拾骨は夜明けになるが、
主だった会葬者はさっさと帰ってしまう。

骨を寺などに運ぶのは僧侶や身分の低い近親者の役目だった。

このような遺骨への冷淡さは、
文学表現上のテクニックという面もあるだろうが、
少なからず平安人の遺体観を反映したものと思われる。

故人の霊を火葬の煙に見送ってしまったのだから、
後に残る遺骨はまさに「(魂)無き殻」というわけだ。

遺棄か放置か?死体でいっぱい!

先の『源氏物語』に烏辺野という地名が出てきたが、
ここは公認の葬地であった。

平安京では勝手に火葬を行なったり墓地を作ったり遺体を放置することが禁止されており、
葬送は烏辺野・蓮台野・化野・岩蔭といった場所に限定されていた。

多数の僧侶の力を活かして母の救いになることだと信じ供養をやってみると母は餓鬼の苦悩から逃避出来、それこそがお盆の起源であると言い伝えられています。
そのうえお墓の形も近年では多種多様で少し前までは決まりきった形状のものばかりでしたが近年では洋風化された、お墓が増えているようですし、自由な発想で形にする人も、多数存在されます。
疑いない定義付けがない『家族葬』という類語ですが、中心的に家族や友人、親しい方をメインとしたちょっとの人の葬儀の言い方として使用しています。

たとえば、
一条天皇や三条天皇、
藤原嬉子(後冷泉天皇の母)は岩陰、
藤原道長は烏辺野で火葬されている。

このように都周辺の丘陵斜面に葬地が定められたのは、
平城京での制度を受け継いだものらしい。

平城京でも京内の埋葬は禁止されており、
墳墓は奈良山や生駒山周辺などに造られた。

烏辺野などは奈良の葬地とは異なり火葬場としての機能もあったのだが、
火葬場といっても現在のように立派な建物があるのではなく、
荒涼とした野であったらしい。

天皇や貴族の場合は貴所屋・火屋と呼ばれる火葬用の建物が使われたが、
身分が低くなると地面に穴を掘って遺体を焼いた。

しかし、
それでも火葬されるだけましといえた。

『続日本後紀』承和九年(八四二)十月十四日の条には、
島田と鴨川に放置されていた死体を焼いたという記事が載っているが、
その数は五千五百以上とされている。

重要な人のご危篤をお医者さんから言われたら、近しい人間や本人が会いたい人に、素早くお知らせしてください。
葬式の性質や進行すべきポイントは葬儀会社が指示してくれますし喪主のお礼の言葉もテンプレートが準備されていますから、そこに少々喪主の言葉をプラスして挨拶として話せばいいのです。
大抵の遺族は葬儀を執り行った事がないので予算はどれくらいかかるの?業者に聞く前に世間の相場を把握しておきたい、と不安を感じるようです。
被葬者は趣味は海釣りだったというご事情を知っていたので旦那さまを偲び釣りの想定で祭壇を、プランニングしました。
キャパや種別によって信頼感が減少するのとは違い葬儀社の対応や行動出向いた時の応対やサービスで、見定めることがポイントです。

『三代実録』元慶七年(八八三)一月二十六日の条には、
潮海国の使者が来日するから山城・近江・越前・加賀などの国は路傍に放置されている死体を埋めよ、
という命令が下されたことが記されている。

つまり、
こうして行政が動かなければならないほど、
京の内外には多くの死体が放置されていたのだ。

遺体放置の様子は文学や美術にも表わされている。

たとえば、
『餓鬼草紙』や『九相図』(美女の死体が腐って白骨になるまでの過程を描いたもの)には、
墓場や野に散乱する死体がリアルに描かれている。

芥川龍之介の『羅生門』(原話は『今昔物語集」)を読まれた方は、
平安京の正門である羅城門の楼上に骸骨が数多くあったと記されていたことを記憶されているのではないだろうか。

こうした平安から中世の遺体放置の状況について、
歴史書などでは「遺棄」という表現を使うことが多いのだが、
これは違うのではないかと私は考えている。

「遺棄」というと、
葬送儀礼も行なわずに遺体を捨て去っているようにとれるからだ。

たしかに積れを極端に嫌った平安貴族は、
屋敷に死稜(死による稜れ)が及ぶのを恐れるあまり、
瀕死の使用人を路上に追い出すといったことも行なっていた。

こうした例では遺棄と呼ばれてもよいだろうが、
平安京の死体がそうしたものばかりだったとは思えない。

あるいは弔辞を述べる本人にしてみればナーバスになるものですから式中の次第に組み込まれるのであれば、早いうちに相談して、納得してもらうようにしましょう。
後飾り祭壇は葬式を終え白木祭壇をしまった後に遺影・遺骨・ご位牌とかを仏間に安置しているための祭壇です。
葬式と告別式とは従来別のもので仏教のお葬式ならば先ず初めに宗教者による読経など行い、その次に告別式、主に家族が故人とお別れする会が、実施されています。
今までご家族の人で実施することが普遍的だった普遍的だった遺品整理ですが、超多忙だったり、遺品整理する土地が遠方だったり、遺族ではできないのが現状です。
絶大な祭壇多様な僧侶大勢の参列者を集めた葬式だったとしても、冷え冷えとした空気だけが漂う葬式もあるし、由緒ある寺院に荘厳な墓石を建立しようが、供養をする人がさほどいない墓石もある。
ひっそりと小さな葬儀を考えているのにもかかわらず派手な祭壇や華美な演出を奨励されるケースは、葬儀社の方針が、あっていないということです。
日蓮宗ではどちらの如来をご本尊と理解してもまるごとお釈迦様に通ずるとした経典だと言っていますが、死亡者宅で葬儀式をする際は、本尊様としてお軸が用いられたりします。

むしろ、
放置も葬法の一つだったと受け取るべきだと考えている。

『餓鬼草紙』を見ると、
放置死体のそばには土器らしきものが散乱している。

これは葬送儀礼に用いられたものと想像され、
死体をただ放置しただけではないことがわかる。

すなわち、
霊に対する供養を行なった後、
「無き殻」である死体は放置されたと考えられるのだ。

火葬遺骨を川に投棄することに通じる「信仰」といえるが、
費用のかかる火葬に比べて、
ぐっとお安い庶民向けの葬法だったといえるだろう。

こうした庶民向けの葬法に変革を起こしたのは、
鎌倉時代の聖たちであった。

 

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